小さな小さな小さな生き物の話PART2


2016年8月4日

空きベッドも無く、廊下にベッドをずらりと並べて点滴を受ける子どもたちの、まるで
野戦病院のような情景はテレビのニュースで何度も流れました。実際に経験した方から
伺うと現実はもっと悲惨な状況だったようです。苦しむわが子の姿や重症者の増える
不安の中を過ごした、保護者の方の中には、後々までその時の精神的な苦しさが
心の傷となった方もたくさんおられました。

恐れていた、犠牲者も出て、O157は食中毒と言うより『疫病』扱いになりつつありました。
極端に言うと、発症する、しないに関わらず、給食を食べた子どもやその家族は『保菌者』
扱いでした。当時、小学生は外に遊びに出ることもできず、家にこもりっきりでした。
友達の家への行き来は禁止されていました。担任の先生が一軒ずつ訪問し、次男は給食の
メニューチェックを受けました。何を食べて何を食べなかったのか。とても細かいチェック
でした。発症状況等、スクリーニングで、だんだん疑わしい給食の提供日が分かってきました。
それは7月8日、9日の給食に提供されたある野菜の入ったおかずに絞り込まれました。

少しずつ原因や治療法などが明らかになる過程で、快方に向かう子どもたちも増えた
お盆過ぎには、街も少しつずつ沈静化してきました。息子も検査で陰性だったので、遅れ
ばせながら夏休みの旅行に行くことになりました。どうせ行くならと、高い山を目指しました。
中学1年の長男と、次男と私たち夫婦の4人で本格的な山登りをすることになりました。

以下は当時の、年賀状の一部です
「出発前、父は息子たちに言いました。『ええか、お互い気分を悪くしたくないので
どこから来たのか絶対言うなよ!』当時、新聞などで堺市出身者への差別が問題に
なっていました。うつむき加減に出発したのですが、山に着くと溜まった鬱憤がエネルギー
になり息子たちはすごいスピードで登り始めました。しばらくすると、他の登山客から
『僕たち元気だね。どこから来たの?』と尋ねられ、真っ先に反応したのは当の父親でした、
『え、ええと。私たち、あのO157で有名になった堺からです』と応えると相手は怪訝そうに
『私たちは奥穂ですが。』と言われました。出発地点が『奥穂高』なのか『北穂高』なのか
尋ねていたのですが・・・それを『さかい』に、ようやくみなは元気を取り戻しました・・・」

特別な夏休みが終わり給食の無い新学期が始まりました。


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