小さな小さな小さな生き物の話 PART1


2016年8月3日

今から、20年ほど前の夏。ちょうど今頃、堺市は大変なことになっていました。
その年の我が家の年賀状にそのときの様子が文章で残っています。

『いろいろご心配をかけてすみませんでした。それは夏休みのちょうど1週間前の
7月13日の夜から始まりました。家の周りで、救急車が走りまわり、何事かと
思うと緊急連絡網の電話がかかってきました。何でも学校で食中毒が発生し、
月曜日から学校はお休みです。と言う内容でした。何がなんだかわからないまま、
街中から子どもの姿が消えました・・・・・』

学校給食の中に混じっていたO157菌による食中毒の事件でした。
保護者も合わせて6000人規模の発症者が出ました。
私たちの住んでいる南区の事態は結構深刻で、4年生の次男の学校は5人に
一人が発症し、ひどい所はさらに発症率が上がって重症者も増えました。
逆に、ほとんど発症者が出ていないところもあり、『堺市』と言っても
地域ごとにバラバラな状態でした。1996年のことです。
当時、私はインターネットを始めたばかりでした。不慣れながらもキーワードに
O-157を入れたら、たくさん出てくるのは英語のサイトでした。突然子どもの
大きな画像が出てきたり、???でした。ようやく日本語のサイトで、死亡に
いたる病原菌で、しかも当時のアメリカでは毎年同じように被害者が出ることも。
最初に見た子どもの画像は、被害者の遺影だったことも知りびっくりしました。

今では考えられないことですが、あの頃、医療関係者のサイトに一般の私も
入ることができました。そこでは医師の方々が必死で治療法のやり取りを
していました。素人の私でさえ医療現場が混乱しているのが分かりました。
(後日実際に医療現場で関わった方の話を伺う機会がありましたが、それは
それはすさまじく、寝食もままならず、戦場のごとくであったようです。)
ネットのやり取りの中でこんな文章も出ました。

「・・抗生剤を使うな!使ってはいけない!この菌を殺してはいけない・・・・・・
腸内の菌を殺菌してはいけない。症状の軽いものには整腸剤程度しか出しては
いけない・・・」  ・・・・の部分は医療用語です。
今でこそ『ベロ毒素』というO-157菌が死んだ後にまきちらす物質の正体は
明らかになっていますが、残念ながら当時は、その情報は常識化していませんでした。
そのせいで初期対応の差からたくさんの子どもたちが痛ましい被害を受けました。

『ベロ毒素』が理解され、特別番組で毎晩のようにテレビでO-157の恐ろしさが
喧伝されるのを、家にこもっていた次男も含め、家族で見ていたら、ポツリと、
「ボク、死ぬの?」と聞かれました。すっかり逆上した私は生まれて初めて
テレビ局に抗議の電話を入れました。あの頃、看病に携わる親はもちろん、
発症していなくても、みなピリピリとした状態でした。そのピリピリ感はどんどん
広がり、パニックのように、その後『堺市民差別』にまで至りました。


ページトップへ