できることできないこと


2009年3月11日

 

随分前。長男が中学3年生の頃、
秋の文化祭に、劇中劇での合唱コンクールのピアノ伴奏者に立候補しました。
「想い出がいっぱい」という曲でした。どちらかというと長男は体育会系です。
持ち帰った楽譜を広げて、家族の前で披露して、全員が凍りつきました。
「そ、それで立候補したの?」というレベルでした。半分冗談で、
「まあ100時間練習すれば弾けるようになるかな?」と言うと、
それを本気で受け取り、必死で練習し始めました。思わぬ展開に焦りましたが、
どうせオーディションで落ちるだろうと思っていました。
が、受験期であり他に名乗り上げる者がいなかったのか、熱意が突出していたのか
予想外に残留してしまいました。
しかも、相変わらず、たどたどしい演奏が続きます。
このままではみなに迷惑がかかると、親は必死であきらめさせようとしました。
主人はアポロ13号まで例に出して説得しましたが長男は聞き入れません。
なんだかんだと言いつつ、結局は応援して、当日は何とか無事に終了しました。
終わってからもしばらくは「部屋の壁からピアノの音が聞こえる気がする」
と次男に言わしめるほどの異常な練習量でした。
家族の疲労感をよそに、長男の達成感はとても高いものでした。
ですが社会ではそのような結果ばかりではありません。
「やりたい」ことが即「やれる(できる)」ことにはなりません。
物事には、さまざまな制約があります。
時に、それは、時間であったり、予算であったりします。
もちろん、いろんな壁を一つずつクリアしていくたびに成長していけるのですが、
結果を出せなければ、努力も無に帰すことがあります。
このあたりが、中学生時代の長男のように「無限の可能性」を信じて
挑戦できない所以です。
夢や希望がたくさんあっても、現実との狭間で心がゆれます。
 

 


ページトップへ