雨です


2013年4月24日

一雨ごとに緑が増えていきます。
花ばかりに目を取られがちですが、新緑の美しさはこの季節ならではのものです。
新芽は、赤い色、黄緑、白っぽい緑などなど、とてもカラフルです。

今日は朝から雨です。屋外での作業はできそうにありません。
敷地内の温室でできる植え込み作業も事務処理の作業の合間で出たり入ったりです。

ビニルハウスの中
苗を育てたり、道具の手入れなどを行います。
奥のヤシの木は近々個人邸へ植え込みに使うものです。

子供の頃は軒先から落ちる雨の雫をひたすら眺め続けていたことが良くありました。
私は「かすみ(ひとみ)ちゃん」と呼ばれるほどのぼんやりした子供でした。
よくジーっと見ている間に、対象物に完全に心を移してしまっていました。

あるとき、母が近所の年長の子供とバトミントンをしました。傍で幼い私はいつものように
ボーっとそのやり取りを見ていました。シャトルコックの応酬がだんだん早くなり
母がスマッシュを決めました。と、同時に、私は、一緒に飛んで?横の溝に落ちました。
ひざの擦り傷の痛さで我に返りましたが・・・完全にシャトルコックになりきっていました。

雑念も無く、ひたすら空の気持ちになれた時間をちょっと懐かしむ今日この頃です。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ


2010年7月29日

今日は久々の雨が降りました。
降り始めの土の匂いが何とも言えません。
埃っぽい乾燥した空気も浄化され。
久々に心まで洗われるようです。
やはり雨は好きです。明日からまた暑くなるでしょうが。
随分昔、学生だった頃。私の所属する研究室の先生はとても厳しい人でした。
学生はもちろんのこと、指導を受けに来る社会人の方に対しても、
その先生は容赦なく怒鳴りちらしていました。
大の男の人が、涙ぐむ姿などはあまり、見たくない光景でしたが
狭い部屋でのやり取りの様子は、嫌でも視界や耳に飛び込んできます。
学生の私は、いつも気配を消して嵐のような時間をやり過ごしていました。
私はその1年間で7kgも痩せてしまいました。
怖い怖い先生でしたが、ちょっと気の弱いところもありました、
一度だけ、肩こりに悩まされていた先生に、効くからと、
手のひらのつぼに、私が合気道の技をかけたことがありました。
「絶対そーっとやれよ!」と何度も言われ、ソーッと
技をかけた途端に、ありえないような時点で
イタタタ!!と叫んで床に座り込まれ、思わず(?)となりました。
先生は怖いけれど、面倒見も良かったので、卒業生がよく
遊びに来ました。そんなときに私は
「ワシを投げ飛ばそうとした」学生として紹介されました。
そんな怖くて繊細な?先生が例によって、怒鳴っていたある日。
いつものように、気配を消して資料を読んでいると、耳に
「・・よく言うやろ。『身を捨ててこそ浮かぶ・・・』『浮かぶ・・・』」と
壊れたレコード(CD)のように、何度も同じ台詞が飛び込んできました。
そして、相手に「言うやろ『浮かぶ・・・』」と尋ねるのですが、
そうでなくても怒鳴り声で頭が真っ白な相手の方は反応がありません。
「君は知ってるやろ」と突然矛先が私に向いて、反射的に「浮かぶ瀬もあれ・・」と
つぶやくと、「よく知ってるやないか」と初めて褒められました。
残念ながら、貴重な褒め言葉も、その状況ではすぐに埋没してしまいましたが。
その、恩師の面影に似て、しかも、声もしゃべりかたもそっくりな方に
同じように、怒鳴られることがありました。妙になつかしいデジャブのようでした。
20代と違って、身の縮む思いをしてもちっとも体重は減りません。
強いていうなら、縮んだのは血管でしょうか。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬」がふと心に浮かんだ今日この頃でした。

台風の思い出


2009年10月8日

子供の頃我が家では、台風が来ると災害対策のために出勤する、
不在の父に代わって、母が、玄関や窓に板を打ち付けていました。
記憶に残る一番怖かった台風は、私がまだ小学校に上がる前のものです。
停電で真っ暗な中、木造住宅の柱がゴーっという音と共に、
ゆれていたのを覚えています。
泣いている私のために、一緒にいた母の弟の、叔父たちが、
暗がりの中で、輪投げをして遊んでくれました。
それはたぶん第2室戸台風だったと思います。
今回の台風と同じ「18号」でした。だから子どもの頃は、
台風は「18号」が一番怖いものだとずっと思い込んでいました。
その後、それほど強烈な台風の記憶は残っていません。
住宅事情も良くなり、板を打ち付けるようなことも無くなりました。
それ共に、だんだん台風に対する恐れのようなものも薄れていきました。
高校時代、授業中に風雨がきつくなり、お昼に警報が出て、
帰宅することになりました。早く引けたのを良いことに、
同級生と地下街の喫茶店で文化祭の出し物の打ち合わせを
していました。
数時間後、地下街から上がると、まるで夜のように、
出入り口にシャッターが下りています。
(変だなあ)と思いながら、電車に乗りました。
当時、私は京阪線で、天満橋と大阪北東部の自宅間を
1時間ほどかけて通学していました。
天満橋から乗車すると、電車は地下から地上に上がって京都を目指します。
発車すると、「この電車は風速2?mで自動的に止まります」
とアナウンスがありましたが、状況がよく飲み込めませんでした。
地下から出て、窓の景色に、普段より増水した川が見え始め、
鉄橋を渡り出すと、突然停車してしまいました。
時刻は5時前後だったと思います。電車の後ろ半分は建物の中、
前半分は外に出た状態でした。前方の車両に乗っていた私は、
窓ガラスに次々に打ちつける斜め破線の雨の跡と、風のうなる音を聞きながら
(しまった・・・)と思いましたが後の祭りでした。
結局、その日、自宅にたどりついたのは、夜の8時半過ぎでした。
携帯の無い時代、逆に、状況を知らせずにいたせいか、叱られた記憶も
無かったのですが、「あなどってはいけない」台風の経験でした。

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