2016年11月(November)

396_n  11月になりました。24節気を3つに分けた72候では、11月2~6日は楓蔦黄です。「もみじつたきばむ」または「もみじつたきなり」と読みます。モミジやツタが色づく頃という意味です。そして秋に山が紅葉する様子を「山粧う」といいます。いよいよ紅葉の季節が近づいてきましたね。
dscf4991 セロシア(ヒユ科)
もともとはケイトウ(セロシア属)と呼ばれていたのですが、最近はケイトウの園芸品種がセロシアの名前で流通しています。写真のセロシア・ライオンハートは学名「炎の舞」という品種です。炎のように鮮やかな赤でふんわりボリュームのある花穂が魅力的です。秋咲きで初秋から初霜が降りるまで、長く楽しめます。 群生させて赤いじゅうたん、ボーダーガーデンや寄せ植えにも使えます。
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セロシア(ヒユ科)
上記のようにケイトウはセロシアの名で流通していますが、特にノゲイトウを改良して作った園芸品種を限定してセロシアと呼ぶ場合もあります。写真はキャンドルタイプのセロシアで、花色は淡いピンクから濃い赤紫色で、ロウソクの炎のような形をしています。花が咲き終わると銀白色になります。花序は水分が少なくかさかさしており、逆さに吊るしておくだけで、簡単にきれいな色のドライフラワーができ上がります。花言葉は「幼時からの友情」
dscf4985 クジャクソウ(キク科)
北アメリカ原産の一年草です。アスター・エリコイデスとキダチコンギクの園芸品種、および白孔雀とユウゼンギクとの交配種などが中心になっています。よく分枝し野菊に似た白色や淡紫色の沢山の花を咲かせる姿が華やかで、孔雀の尾に例えてこの名が付きました。キダチコンギク(木立紺菊)、クジャクアスター、宿根アスターとも呼ばれます。花壇や鉢植え、また花もちがよく、水に浸けておくと次々に開花するので切り花にも利用できます。花言葉は 「いつも愉快」「ひとめぼれ」
 dscf4984 トウガラシ(ナス科)
熱帯アメリカ原産。観賞用トウガラシは、果実の観賞をとても長く楽しめます。日本では一年草として扱われますが、原産地では多年草になるものもあります。日本でも5℃程度を保てる温室や沖縄地方では多年草になります。写真のブラックパールは黒葉種でシックな印象です。若葉の頃はやや緑みが強く、日光と温度の条件が十分だと艶のある美しい黒葉になります。実は黒色から成熟すると赤みを帯びてきます。
bidensu1 ビデンス(キク科)
世界中に約230種が分布するキク科の草花で日本でもセンダングサなど6種が自生しています。ビデンスの名前はラテン語の「2」と「歯」を意味する単語の合成語で、実に歯のような2本のトゲがあるところからきています。日当たりさえよければ寒さにも強く、よほど寒冷地でなければ越冬します。黄色い小さな花を咲かせる可憐な植物ですが、実は地下茎を伸ばして勢力を拡大し、アメリカでは雑草並みに繁殖しています。
yu-fo1 ユーフォルビア・ゴールデンレインボー(トウダイグサ科)
ユーフォルビア属の原種は2000種以上あり、形態も一年草、宿根草、多肉植物、低木と多岐にわたります。写真のゴールデンレインボウは地中海沿岸原産の耐寒性多年草です。冬も常緑性で黄金斑が入る美しい葉色を保ち、寒さにあたると赤みがさします。非常に乾燥に強いので大型のセダムのような感じで使われます。春先の新芽や秋の紅葉が特に色彩豊かで美しい品種です。葉を傷つけると刺激性の乳液が出ます。
       house_1f 朝日のあたる家
 急に秋が深まってきました。木々の葉色は日ごとに赤みが増え、梢に残る葉の数も減りました。足元には落ち葉が積もり、特有の香りがします。空も雲も風も、もうすっかり秋です。
夏の間は、気が重かった庭仕事も、この時期は心地よいです。落ち葉を集め、雑草を抜き、伸びすぎた枝を切っていると、いつの間にか時間が過ぎています。
何よりも気持ちのいいのは、朝の庭作業です。時には寒い位のひんやりした秋の空気の中で、植物たちと関わる時間は、とても贅沢なものです。
我が家は隣が空き地なので、朝の光がいっぱいに降り注ぎます。光を浴びて、庭にいると、心の片隅に居座るネガティブな思いも、漠然とした不安も、嫌な夢も、全部昇華されてしまうような気がします。
中学生の時、友人の家でジョーン・バエズのアルバムを聞かせてもらった事がありました。
アコースティックギターの音と、透きとおるような声、英語の歌詞。意味は分からないけれど、大人の世界に踏み入れたようで、何もかもがとても新鮮に思えました。
「ドナドナ」の次は「朝日のあたる家」でした。
タイトルと、ゆっくりしたテンポで透明な声で歌い上げられる世界に、私はなだらかに広がる緑の丘と、いっぱいに朝の光が降り注ぐ家を想像していました。
それはまるで、幸せの象徴のように思えました。
「朝日の当たる家」が、本当は悲しい歌だとわかったのは、随分後の事でした。
時が経ち、私は朝日を浴びながら、庭で満たされた時間を過ごしています。
植物たちも朝日を浴びている時は、より生き生きと見えます。
朝日がいっぱいに降り注ぐ家は、やはり幸せの象徴に思えます。
歌に登場する人たちも、朝日を浴びている間だけは、悲しい日常を忘れて、清々しい晴れやかな気分を味わっていたのかもしれません。
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